"Keep it simple": 心の声に耳を澄ませながら生きる。~植物と人間と庭の紫陽花と~

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朝、洗濯物を干しながらふと思った。

 

「そういえば今年の目標、“keep it simple”にしたんだっけ」

 

Stay true to your heart(自分の心の声に従う)みたいな意味合いも込めてるけど、クサイ言い回しにしない方が当時の自分には共感しやすかったから、

あえてKeep it simple=「シンプルに(生きる)」にした。

 

これは、もっと自分の内側から聞こえてくる声に耳を澄ませながら、シンプルに人生を生きていきたい。

と思った私が立てた、自分への小さな誓い。

 

 

何を隠そう去年の終わりにかけて、面倒な人間関係やモヤモヤする環境、すべてにおいてストレスが溜まりまくっていた私。

 

なんだか「〇〇しなきゃ」で一日が終わっていく…

→必然的に、本来自分が大切にしたいことに費やす時間と心の余力が削られていく

 →モヤ

 

→あれ、そういえば私、自分の心に嘘ついてまで何をこんなに無理してるんだっけ?

 →…本来人生ってもっとシンプルなものであっていいはずだよね?

 →モヤモヤ

 

心にいつの間にか棲みつき、次第に積もりつもったモヤモヤたち。

心と身体は繋がっているとはよく言ったもので、図らずも同時期から自分の体調にとてつもない違和感を覚え始めた私は、後に「何よりもまずは自分の心の健康が一番」と身をもって思い知らされる羽目になる。

 

 

「自分の心が「NO」と言ったら、世間がなんと言おうとスッパリ止める。関係を切る。それでいいじゃないか、2020年!」

と、自分を奮い立たせて当時の私がたてた今年の目標が、“Keep it simple”だった。

 

ちなみに英語では、日本語で言う「直感」とか「心の声」みたいなのを、

“intuition”(直感、本能)の他にも、“gut instinct”(胃腸の勘)って表現したりする。

「頭でごちゃごちゃ考える」=brain(脳)の対義語的な感じでgut(胃腸・臓腑)を使うのがなんとも面白い一方で、これがまた非常にしっくりくる表現でもある。

心って結局どこにあるのかわからない。

けど、お腹の奥の方から湧き上がってくる「なんかうまく言えないけど違和感」みたいな気持ちって、私の経験上たいてい正しかったことが後々証明されるからだ。

 

 

こんなことを考えながら、ぼんやり実家の庭に咲いている紫陽花を見ていたら、

母から聞いたある話を思い出した。

 

私の実家の庭で、今年も美しく咲いている紫陽花の花たち。

これは、もともと母が自分の実家から挿し木でもらって育てたものだ。

母は祖母の庭で青々としたきれいな色の紫陽花が咲いているのを見て、

「すごくきれいな色…うちの庭でも育てたい!」と、さっそく挿し木を持ち帰り、我が家の小さな庭で育て始めた。

ピンク、白、青、紫…と様々な色がある紫陽花の中でも、青色の花が格別に好みだったこともあり、私自身もその紫陽花の成長をとても楽しみにしていたのを覚えている。

 

その後、母の愛情を受けてすくすく成長し、庭の紫陽花は立派な花を咲かせた。

ところがその花は、当時母が実家から持ち帰ってきた真っ青なものとは似ても似つかない、どちらかというと赤よりの紫色だった。

 

その後、不思議に思って調べてみると、どうやら紫陽花とは育つ土の酸度によって微妙に色が変化するものだということが分かった。

また、母の体験談によると、同じ庭の中でも植えた場所や若干の日の当たり方、といった環境的な要因も花の色に微妙な変化を生むらしい。

 

当時、祖母の庭とは全く違う色で咲いて見せた紫陽花を見た私には、それが花のある種の意思表示のように映った。

 

 

草花は無言であることから、私たちは普段それらを無意志なものとして捉えている。

 

しかし、紫陽花のように植えられた環境によって全く違う色の花を咲かせるものもあれば、場合によっては合わない土壌や環境に置かれて枯れてしまう植物もある。

 

「私は、この環境/土壌ではこういう色でしか咲けません」

「ここでは息苦しすぎて、病気になってしまいます/枯れてしまいます」

「何とか生きているけど、これ以上枝を伸ばすことはできません」

まるでそんな声を体現するかのように生きて、朽ちていく植物たち。

 

私たちは、紫陽花が違う土では全く別の色で咲くことを発見した時や、育てていた植物が枯れてしまった時、また日々の水やりや観察の中で「何かおかしいな?」と感じた時に初めてその異変に気付き、植物とはそういうものなのだ、と理解する。

 

 

一方、人間はどうだろう?

 

息苦しい環境やストレスフルな人間関係の中にいるとき…私たちの髪の毛が緑色や紫色に変化して異変を周りに知らせてくれる機能があればよかったけれど、残念ながらそうではない。

かと言ってほとんどの人は、「それはできません」とか、「これ以上無理をしたら病気になってしまいます」と周囲に向かって声を上げられるわけでもなく、自分の心と身体の不和をそれこそ臓腑の奥底にしまい込んで生きているのかもしれない。

 

そして、自分と合わない環境に無理やり連れてこられた花がいずれ弱って枯れてしまうように、人間も無理をした先には心身の病気やストレス、場合によっては死に至る(または自ら命を絶つ選択をする)ケースもあるわけだけど、そうなってからでは元も子もない。

 

本来私たち一人ひとりにも、それぞれのキャパシティや得手不得手があるはずだけど、それらすべてについて挑戦する前から自分で把握出来ているかというと、案外そうでもない。

それどころか、やってみて初めて「あぁ、何か違ったな」とか、「失敗したかも」って感じることがほとんど。

そしてきっと、「失敗したかも」と(心が)感じた次に(頭で)考えるのが、

それが「自分の心の持ちようと工夫次第で乗り越えられるレベル」の違和感かどうか。

 

そうは言っても今までにあまり経験のない分野で感じた違和感だと、「まぁ、本能的には今すぐ辞めたいくらいだけど、きっともう少し何か工夫できる部分があるはず」とか、「環境のせいにするなってよく言うよね、自分の心もちを改善したら何か変わるかも」と思ってほとんどの人がもう少し頑張ってしまう。

 

もう少し、もう少し…

自分で決めた何ヶ月間か、はたまた何年間か。

その環境に自分を置いてみて、それでも息が切れてきた。

ん?っていうかもはや息切れなんてレベルじゃない、なんだか過呼吸気味になってきた気がする。

 

はてどうしたものか。

 

 

ここで大事になるのがきっと、最初の頃に感じた違和感=“gut instinct”が、

その時点でまだ引っかかっているかどうかなのかも知れない。

YESだった場合、その環境に無理して自分をそれ以上縛り付ける必要はないはず。

 

 

きっと自分でもこう思う。

 

過呼吸になってまで他人や世間に求められる色で咲き続けることに、一体何の意味があるんだろう?

 

このまま身体が拒絶する養分ばかり摂取してたら、しまいには心が枯れてしまうんじゃないか?

 

 

この段階も通り過ぎるくらいに自分の心の声を無視し続けたり、放置し続けたりすると…

残念ながら心だけでなく、心とつながっている身体にも不調が出始める。

そしてしまいにはどちらもボロボロに弱ってしまって、うっかり枯らしてしまう前に水をやらないと取り返しのつかないことになる。

 

植物と違って、違和感を覚えても外に出すまいとするのが人間だから、周りもなかなか気づかない。

「いつも元気だな」

と思っていた人が、ある日突然倒れたりする。

 

そして当の本人ですら、そうなってから初めて自分の心身の不和を無視していたことに気付く、なんてことも…。

身に覚えがある人もいるのではないだろうか。

 

 

何が言いたいかというと、結局自分の“gut instinct”って自分で察知してあげるしかない。

放置して無理し続ける時間が長ければ長いほど、心身のダメージも大きくなって行く。

そしてここからは植物にも通ずる部分で、

「少し元気がない」くらいの段階だったら、そこから根気強く水をあげ続けることで、また元気な状態に戻すことが出来るということ。

問題は、「少し元気がない」心と身体の状態に、ほかの誰でもない自分自身が気付いてあげられるかどうか。

植物も人間も、この段階で気づけずに放っておくと、その分元通りになるまでの時間も伸びていく。

そして最悪の場合には、もう一生元に戻れないこともある。

 

 

わかってはいるけど道をそれるのがちょっと怖い…

こんな考えは甘えだと思う、きっと私が弱いだけ。

みんなに「逃げ」だと思われたくない。

 

 

 

 

大丈夫、

「逃げ」も時には「正当防衛」の一つだから。

 

 

一休みして、きちんと水やりを続けたら、また歩き出せる。

 

 

 

でも、自分の心に一番先に水をやれるのは、ほかでもない自分自身。

手遅れになる前に、心の声に敏感になってあげよう。

 

 

 

Peace!